2007年05月12日

東山動物園の受難、壮絶な戦いの物語

1937年
動物と人間の間に柵を作らずに動物を自然に近いかたちで観賞できる無柵式
日本初の試みで290種以上の動物がいて動物園の規模も東洋一を誇っていた

園長に就任した北王英一は、元獣医で動物に愛情を持ち、無類の猛獣好きとして知られていた


1937年3月24日 東山動物園が開園
無柵式なので客が怖がって来ないのではと一抹の不安を抱えていた園長だったが
蓋を開けてみると連日人々が列をなす程の大盛況だった

だが、この年に日本は日中戦争へと傾れこみ、暗い時代に突入しつつあった
そんな中、動物園は家族が一緒に楽しめる数少ない場所
殆どの子供達のお目当ては当時まだ珍しかった象である

だが東山動物園には象は花子1頭しか居なかった
子供達の為にどうにか象の数を増やしたいと常々思っていた園長は、ある日意外な場所で象を目撃する

それは名古屋で興業をうっていた木下サーカスだった
そこには4頭の象が居たが戦争の影響によって餌となる飼料の確保が難しくなり困っている様子だった
そこで知人の紹介で木下団長に4頭の内2頭を譲って貰いたいと願い出たのだが、

木下団長は考えた末に快く承諾する
ただし、象4頭はずっと一緒に暮らしてきた家族なので4頭一緒になら譲りましょう・・・
団長は象2頭分のお金で4頭を譲ってくれると言うのだ
お金の問題ではありません、だから象達にはくれぐれも良くしてやって下さいとお願いされる


そして半年後の1937年12月
東山動物園に木下サーカスから4頭の象が来る事になった
一番大きなキーコ、小さいエルド、美形のマカニー、唯一のオスのアドン
その姿を一目見ようと沿道には人々が溢れた

象達と寝食を共にしてきた象使いの少女達が一緒に泣きながら寄り添っていた
少女達は象と離ればなれになる事を最後まで反対し、団長にお願いしていたが
象の飼料を工面する事が難しく、これ以上飼い続けるのは不可能と彼女達を説得するのに半年間もようした

少女達が泣きながら泣きながら団長にお願いしている場面を北王園長も見ている
園長は誓った、今後どのような事があろうとこの象達は必ず守って見せると・・・

そして一気に4頭の象が仲間入りした東山動物園は
象舎の前には連日黒山の人だかりが出来るほどの大人気

象の飼育を任されたのは新人の浅井力三と
東山動物園の前身でもある名古屋動物園時代からのベテラン飼育員の安藤治助
安藤と浅井の二人は、毎日競うように象の世話に励んだ


後に、開園時からいた先輩象の花子が1939年1月に死亡


1942年 東山動物園が開園5年目を迎えた頃
日中戦争は泥沼化し、さらに太平洋戦争の戦況が徐々に悪化していくに従い
動物達の飼料や暖房用の石炭などの供給が日に日に制限を受けるようになってきた
その影響で餌不足や寒さで動物が倒れていく事態が起こり始めた

北王園長は動物達の命を守る為に何度も役所に足を運び交渉を試みたのだが
人間の生活も厳しい中、動物は二の次であり、すでにそんな願いが通じるような状況では無くなっていた

そんな中、1通の手紙が動物園に届いた
手紙には上野動物園では軍の極秘命令により象を初め、
空襲で逃げ出した際に人々に危害を加える恐れのある27頭の処分が行われたとの連絡だった

上野動物園は正式には恩賜上野動物園と言い、明治天皇から賜った特別な動物園であった
その上野動物園に処分命令が下ったのであれば東山動物園にも遅かれ早かれ同じ命令が下ると誰もがそう思った

数日後、飼育員の浅井力三の元に軍からの召集命令(赤札)が届いた
その夜、浅井は自腹で買いこんだ象の大好物のリンゴを持って1頭1頭に泣きながら別れを惜しんだ

浅井は覚悟していた。
この象達はいずれ殺されてしまう、自分も生きて帰れないだろう
もう二度と会う事は出来ないのだと・・・

そしてついに東山動物園にも通達書が届いた
名古屋への空襲がいっそう激しくなり、動物達の暴走を危惧した軍と警察が動物処分を強く迫ってきた
だが職員にとって動物達は家族、命令だとしても簡単に殺すことなど出来る訳もなかった

北王園長は軍と徹底的に闘うと決意する!

戦時中の動物園の事が書かれた外国の論文を読み漁り、軍に出向いては空襲で檻が壊れたとしても
それほどの爆撃であれば同時に動物も死ぬであろうから殺す必要は無いと何度も説明を繰り返した

また新聞に動物達は安全だと記事を載せたり、あえて軍の戦意高揚のイベントに参加し、
こんな時こそ動物達が必要であるとアピールするなど懸命に動物達の命を守ろうとしたのだった


1944年12月
それまでにない規模の大空襲が名古屋を襲った
いつ檻が壊れるか判らない、人に危害を及ぼす危険があるネコ科の動物達を一斉射殺する許可を求めてきた

もし猛獣達が暴れ、人々の身に危険が及んだら・・・ 苦渋の決断
愛する動物達が次々と目の前で命を落としていった

しかし、悲劇はそれだけでは終わらず、同じ理由で象達も殺せと圧力がかかった

園長は軍に出向き、必死に訴える
脳裏にはあの日の少女達の顔が浮かんでいた
象の事を最後まで気にかけ無念のまま出兵した浅井や今も世話を続ける安籐さん達の事を

象はトラやライオンとは違い大人しい動物です。決して人を襲ったりはしません
象の足はすべて頑丈は鎖で縛っていますし、暴れても逃げられません
それでも殺すと言うのなら私も一緒に殺してくださいと必死にお願いする

こうして一先ず難を逃れ、殺処分の執行を回避


だが1945年1月
寒さと栄養失調が原因でキーコが死亡、後を追うように2月にはアドンも死亡してしまう


1945年2月16日
軍が動物園に駐屯するようになり、動物園は閉園に余儀なくされる
それにより物資はいっそうに途絶え、多くの動物達が飢えなどにより続々と命を落としていった
さらに敗戦の色が濃くなり軍の士気も著しく下がっていく

このままでは生き残った2頭もいずれ殺されてしまうと身を案じた北王園長は軍に直接出向き、
陸軍獣医 三井高孟大尉と話をするが軍の人間だけあって軍規に忠実

他の動物園では象も殺されている、あなたの所だけ例外と言う訳にはいかないと一喝

園長も諦めずに訴える
あなたも獣医ならわかるでしょう! 動物に罪はないんだ
動物達は今までずっと私達人間に笑顔をくれ、生きる勇気を与えてくれた、人間にとって恩人です
そんな動物達は何もしていないのにあなたは殺せと言うのか!
あなただってわかるでしょう! 同じ心を持っているはずだと・・・

軍部との交渉に失敗し動物園の戻ってみると驚くべき光景があった
それは象の為にと政府高官や軍にサンドイッチを搬入していたパン工場の人達が
見つかれば重罪にもかかわらず、抱えきれない程のパンの耳を差し入れしてくれていた

職員達も自主的に園内の空き地を耕し、作物の栽培をしたり
安藤は空襲のさなか、知り合いの農家を尋ね歩き、不足していた食料やワラを分けて貰っていた
象は毎日、ワラなどの繊維質を摂取しないと消化不良を起こし命を落とす事もある為
ワラは象にとって必要不可欠な物であった

こうした動物園の努力を知った近隣の人達も入口を閉鎖した軍に隠れて、野菜くずなどを差し入れてくれた

そんな中、不思議な事が起きた
なぜかゾウ舎の通路にゾウの餌となる軍配用の飼料が積まれるようになった

きっとこれは罠で、我々が盗んだ途端それを口実にゾウを殺そうと言うに違いない
そう思った職員たちは飼料を使わずに我慢していたが
ある時、巨体を支えるには食料が足りなく栄養不足で横たわる衰弱したエルドの姿を発見する

罠でも良い、エルドをこのまま見殺しには出来ないと命懸けで軍需物資を盗む事を決意
ゾウを救いたい一心で少しずつ飼料を黙って使い続けた
2頭の象を守る事、それが彼らにとっての最後の誇りであり、最後の希望だった


1945年8月15日 終戦 長い戦いが終わりを告げる
それから数日後、浅井が戦地から戻ってきた
生き残ったゾウが2頭居ると聞き動物園に駆けつけてきたのだった
すると、マカニーとエルドも浅井の事をしっかりと覚えていて2年ぶりの再会を分かち合った

その後ある事実が明らかとなった
象舎のすぐそばに積まれていた食料、それはある男の無言の支援だった事が判明

そう三井大尉だ

軍人達の手前、厳しい態度を取ってはいたものの、弱り果てていく象を常に気にかけ見捨てる事が出来なかった

三井大尉は上官と言う立場にもかかわらず、軍紀を破ったことを重く受け止めていた
それゆえ、彼は家族以外には決して語る事は無く、この事実は彼が亡き後ようやく明らかとなった

こうしてマカニーとエルドは多くの人達に支えられ激動の時代を生き抜いた
日本中の動物園で生き残った大人のゾウはこの2頭だけだった


1946年3月17日 東山動物園 再開園
戦後、元気を無くした国民に希望を与えるのが自分達の役目と再び動き出した
残った動物は少なかったがそれでも人々はマカニーとエルドに会いたいと動物園に戻ってきてくれた
日本でたった2頭生き残った大人のゾウが敗戦で曇りがちだった子供達の顔に笑顔を取り戻した


1949年
終戦から4年が経とうとしていたある日
上野動物園にはゾウが居ません、東山動物園のゾウを1頭貸してくれませんか?
ゾウが見たいと言う東京の子供議会を代表して原田尚子と大畑敏樹の2名の生徒が訪れたのだが

出来れば貸してあげたい
だが、ずっと一緒に苦難を乗り越えてきたマカニーとエルドは決して離れようとはしなかった

さらに食糧難から東京までの長距離輸送には体力も持たない状態でもあった
それでも何かゾウを運ぶ良い方法は無いかと園長は名古屋市長に相談を持ちかけた

その時、市長が出した名案とは
ゾウが運べないのなら子供達を運んでしまおうと言う案だった

しかし当時の列車は大変な混雑ぶりでとても子供達が大勢で乗れるような状態では無かった
そこで駄目を承知で鉄道局に臨時の専用列車を走らせて欲しいと非現実的な提案を頼んでみると

やってみましょう・・・

なんと予想に反し鉄道局員らが立ち上がってくれたのだ

だが実は問題が山積みだった

当時の日本は戦争に勝利した連合国軍の統治下にあり、臨時列車の運行に関しては
米軍の専用列車の邪魔にならないダイヤで運行しなくてはならない
子供達の体調を考えた運行時間など厳しい条件がいくつもあったのだ

鉄道局員らは何度もGHQ 連合国軍総司令部を訪れ事情を説明した

北王園長らの思いは日本中を動かしたのだ
すべては子供達の笑顔のために・・・


そして、1948年6月18日
東山動物園のゾウを見る為の臨時列車 第一号運行した
子供達の夢と希望を乗せたその列車の名は ぞう列車 と名付けられた
その後、日本各地から3万人以上の子供達がぞう列車で東山動物園に運ばれ、憧れのゾウと触合った



戦後、人々に勇気を与え続けたマカニーとエルドは相次いでこの世を去った

1963年 9月 エルド死亡
      10月 マカニー死亡


その後の職員達

安藤治助 1949年に惜しまれつつ引退

浅井力三 その後も東山動物園に勤務 ゴリラに芸を仕込む事に成功するなど
       ゴリラ飼育の第一人者として全国にその名を知られるようになった

北王英一 57歳で引退するまで東山動物園の園長であり、
       マカニーとエルドが死ぬまで毎日欠かさずご苦労さんと声をかけ続けた



そして現在、東山動物園のゾウ舎の前にはぞう列車50年の記念碑が建てられている

命懸けで2頭のゾウを守りぬいた人達が居た事を
その2頭のゾウが日本中に生きる勇気を与えてくれた事を決して忘れてはならない




この話を是非本にして子供達に聞かせたいと小出さんは園長に語る
園長は快く承諾するが、この話は美談にしないで下さいと念をおされる

守れなかった動物達も沢山居る、2頭のゾウが生き残ったのも

ただ、運が良かったんです。


そして絵本が完成した
そのタイトルは




ぞうれっしゃがやってきた 岩崎書店
小出隆司・作 箕田源二郎・絵



遠い昔、命懸けでゾウを守り抜いた人々の愛と勇気
それは永遠に受け継がれていくだろう


Posted by もぐちゃ at 19:56│コメント(1)トラックバック(0) │カテゴリ ☆ その他

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なんでこんな嘘書くかなぁ

軍部は動物を殺せなんて命令一度もしてませんよ
軍部が命令したのは動物が逃げないように処置しろの一つだけ
その命令に沿って、動物を殺す判断をしたのは東京都の当時の都知事で、それを実行したのは上野動物園です
名古屋の東山動物園には関係ない話なんですよ

大体、動物に餌を与えたのはぐんじ
Posted by 通りすがり at 2016年05月04日 11:40
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